コミケ96に行って死を買ってしまった
まぁタイトルの通りなんですけど、今日はこの同人誌を買うためだけに朝4時に起きて5時の電車に乗り東京ビッグサイトの前で3時間以上待つ体験をしてきたんですね。
昔ジャンプフェスタに行くために同じようなことをしていたことがあったけれど、コミケでは初だし大学入ってから睡眠とはベストフレンドだったのでなんでそんな人が多いところにそんなことしてまで行かにゃならんのだ皆どうかしてるぜなんて思ってました。
初めてコミケに行ったとき、どっから湧いてきたこの社会にいない奴らはと言いたくなるほど日常に存在しない「ザ・オタク」的な人種が、または他人を思いやる心を家に忘れてきてしまったのだろうかと考えてしまうほどにそれぞれの理由で動く無秩序な人々が大勢いることになんだか辟易してしまいました。
嘘です
本当は分かっていることでした。
ジャンプフェスタの時にも分かっていることなのです。
「その熱量に混ざれない」という自覚が不快感を生んでいただけなのです。
ただの被害妄想です。
そこに来る人たちはみんなその空間が好きだったり、目当てのものがあったり、何にせよ確固たる決定の下にその一員となっているのです。
私はそこに一員として加わることができないことに勝手な疎外感を覚え、また何故そんな奴がこの場に来てしまったんだと自分を責める他ないことをその場にいる人間のキラキラ感が低いと感じるがために責任を押し付けているのです。
「そこに本を出すという行為に必要な熱量、時間」を理解しているにもかかわらず、「それを理解しているが故に求めに訪れる人たち」の熱量を理解しようとしていない私は一体あの場で何だったのでしょうか?
もうコミケに関する話はいいよ。
同人誌の話をしよう。
今回買ったこの同人誌は友人が寄稿しているので購入したわけなんですが、まぁ端的に言ってドロドロという他ないです。
「自身のこんな恋愛経験が秒速と結びついてこんな感情を抱き続けている」っていうのが大体の人なんですけどそうですね。
率直な感想を申し上げると「俺も恋愛で死にたかった」ですかね。
交友関係の範囲では皆そういうのを察しているので私に恋愛話や男女の性について話題を振ってくる人はまずいないのですが、私自身が皆がそういう配慮をして会話しているんだなって感じてしまってからというもの「真っ当に生きていれば体験するはずのものがないためにそれに付随する獲得や喪失もない」というのが浮き彫りにされているのをよく思います。
例えば、秒速5センチメートルを見るにしたってこの同人誌に寄稿されている方と私では観点が全く異なるわけです。
「心の中に開いた穴を埋めていくのが人生」というのは僕の好きな漫画に出てくる考え方です。
秒速やこの本へ寄稿された方々は自身の失われた初恋について自身の感情を吐露し、既に自身の中で折り合いがついていたり、まだ引きずっていたりしながらこれを書くことで一つの区切りのような、決着をつけられているように感じました。
「恋愛の穴は恋愛で埋めろ」
好きなゲームでそんなことを言っていました。
自身の中の初恋と向き合うことで傷をほんの少しでも埋められることは、まだ何も先に進まないことよりはるかに良いことだと思います。
「たとえ思い出せなくても、それが有った事だけは変わらないから。」
私の好きな小説から抜粋した一節です。
秒速の秒速5センチメートルの
「かつてあれほどまでに真剣で切実であった思いがきれいに失われていることに僕は気付き、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた。」
に共感し、自分の中の初恋が死んだのだと嘆くことは私にとっては違うのです。
人の永遠とはプラスでは決してありえない。
だから、新しいプラスを積み重ねていくことで人はその先の永遠を夢見ることができるようになるのだと思います。
誰にとっても、特に秒速に共感したあなた方にとっては特に、初恋はプラスの極致にあったでしょう。
今あれほどまでに抱いていた初恋が死んでいたというのは違うのです。
一人で抱えて10年膨れ上がっていたものだとしても、新しいものを足せないものに未来はないのです。
初恋が死んだというのならそれはきっと、貴方が初恋の相手から遠ざかった瞬間でしかないのです。
この話は決して、初恋を引きずり続けたことに対する批判ではありません。
あなたが生きながらに死を積み続けた時間は、貴方が囚われ続けてきた初恋は、たとえその本来の形、感情、意味を失ったとしても今生きている自身の道筋に在り続けるものなのです。
貴方が今、なりたかった自分ではないかもしれない。
でも貴方が今の自分を否定しきれないのならその道筋で落としてしまったものは、落としてしまったことは絶対に今の貴方を構成しているのです。
あなた方は今日この本を出したことでその存在を現在に確立させています。
それはとても良いことなのです。
多く傷ついたでしょう。
多く悲しみ、嘆き、怒ったでしょう。
でもそれをそのままで終わらせない選択を今日貴方たちはここで形にしたのです。
ここに綴られた生々しい感情も当然とても読み応えがありました。
そしてそれよりも貴方たちがこれを経由して歩んで行く未来に想いを馳せたいと思ったのです。
大変良かったです。
好き勝手な感想文を書いたわけですが、自分自身のことを話すと私には何もない。
自身の中に抱いた初恋やその相手が寄稿者たちの人間性を広くし、それが喪失されたことで穴を感じることと私の虚無感は物が違う。
先程から作品からの抜粋を入れているように私を構成しているものはきっと他人との繋がりではなく見てきた作品なのです。
寄稿者のように広がった部分の喪失ではない。
私の穴とは外壁を作品で補強した結果自分というものを見失いやすくなり、結果的に残ったものは外殻だけ。中身の伴わない何かなのです。
その穴にまた作品を入れて自分を何者かにしようとしているのが私の人生なのだと思います。
人は人と関わっていくことで自身と他者の輪郭を把握しそれを変えていくものなのです。
そうして出来上がった自身を作品を観るなどの人生経験で補強していくのです。
私は外殻だけが鍛えられていただけだと気がついたのは既に大学が終わるころ、昨年の2月でした。
友人の勧めでWHITE ALBUM2をプレイし様々なことに考えを巡らせるうちに、いかに自分がそうした他人との繋がりを怠ってきたかを自覚したのです。
「貴方はそこにいますか?」
こんなことを書いていても出てくるのは見た作品の言葉です。
果たして私はここにいるのでしょうか。
作品で立ち、作品で歩み、作品に打ちのめされ、作品で生きている。
自己肯定感がないのも当たり前です。
自己否定感が薄いのも当たり前です。
自己がないのにそんなものは強く持ち続けられるわけがない。
ただの空洞、ただの虚無。
まさしく死相という他ない。
きっと俺が未来を好きなのは、過去を省みたくないからなんだね。
しかし、そんなことを考えて人間社会生きていけるわけもない。
人間もどきは真っ当なフリをして、優しく接してくれる会社の先輩も、同僚も、コンビニの店員も、誰も彼もを欺いているような感覚を押し殺して生きていく他ないのです。
でもね、俺だって友人とかと遊んでいるときはそんなことを考えなくていい、きっとそこに自分がいるって思えるんだ。
だから俺は俺の周りにいてくれる人を大切にしたいんだよ。
許されるのなら、求めてほしい、誘ってほしい。
具合が悪くなければ行くから(夜更かしをやめろ)。