NRRW雑記

あれが面白かったとか、これが美味かったとか、楽しかったとか嬉しかったとかそういうの残ってるといいかなって思ったので書きなぐってます

ガンダム Gのレコンギスタ

Gのレコンギスタ、以下Gレコで、について話すにはまずガンダムというものについて話す必要がある。

機動戦士ガンダム新世紀エヴァンゲリオンと並ぶ「見たことが人でも存在ぐらいは知っているアニメ」だろう。

ガンダムがこうしたビッグコンテンツになれたのは監督である富野由悠季の策略、周りのスタッフの尽力、ファンの熱意があったのは間違いではない。

が、そんなことは消費者には何も関係ない、気にもしないことだ。

 

単純な話をしてる。

何故かなんて、そんなの、機動戦士ガンダムは面白かったのだ。

『人類が、増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、すでに半世紀が過ぎていた。地球の周りには巨大な人工都市「スペースコロニー」が数百基浮かび、人々はその円筒の内壁を人口の大地とした。スペースコロニーは人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を生み、育て、そして死んでいった。

宇宙世紀0079。
地球から最も遠い宇宙都市「サイド3」はジオン公国を名乗り、地球連邦政府独立戦争を挑んできた。この1ヶ月あまりの戦いで、ジオン公国連邦軍は総人口の半分を死にいたらしめた。人々は自らの行為に恐怖した。』

ロボットプロレス全盛期にこんなSFやるのすげぇよ……

こんな広大な世界で必死に生きる人たちが描かれてしまったから、俺みたいにたくさんの人がガンダムに囚われた。

それは、富野由悠季監督も例外じゃなかった。

 

 話がズレてきた。

ガンダムに関する富野由悠季の苦難の道は自分で調べて欲しい、重要なのはそこじゃないからね。

何にせよ、機動戦士ガンダムとは始まってしまった戦争に巻き込まれた人たちが足掻いていく話であることが多い。

今の状況に納得せず、さまざまな出会いと別れを経て前に進もうとする話だ。

当然の話ではあるけれど、戦争を取り扱う以上テイストは重くなりやすい。

死は常に隣にあり、今日の出会いは気付けば敵になる。

戦争という非日常(戦争が日常である人たちもいるなんてこと今の日本で言うことじゃない)のなかで描かれる複雑な人間ドラマ、それがガンダム

まぁこれは個人的な意見であって「メカがかっこよくガシガシ動きゃそれでいい、話なぞいらん」って人もいるだろう。

でも今してるのは俺個人が感じたものだから、これで進める。

 

さて、ようやく戻るけれど「Gレコ」は脱ガンダムを掲げられた作品だ。

俺がこの作品で一番それを感じたのは「人間としてのあり方」を描いていた点だと思う。

http://www.g-reco.net/special.html

戦争は人類にとって類を見ない強大なファクターだが、人類は戦争をやめられないが、それでも戦争は人が人として生きるためのものではない。

長い年月戦争を描き続けてきた富野由悠季だからこそ作り出せた作品だと、メッセージだと思った。

「戦争はいけないことだ」なんてみんな言える。

でも、「ではどうするのがいいんだろう?」なんてやってくれるのは、そんなお節介してくれる人はなかなかいない。

Gレコのどんなところにそれを感じたかというと、主に宇宙に上がってからだ。

最初10話ほどは、従来のガンダム的要素が多い。はっきり言ってここまでは序章だ。

そこからが、ベルリとアイーダの冒険になる。

どこに向かうかではなく行った先、その道のりで何を見て感じたかが非常に重視されている。

もちろん、船の行き先はある。

でも船のゴールとそれに乗る人のゴールは違う。

少年少女たちは世界を人を自然を仕組みを見てまわる。

地球を飛び出し月へ、月を飛び出し金星へ、そして地球に帰る。

 

これは君の名は。の特典映像で聞いた話なんだけれど、「行って帰ってくる」という行為が意味するものは成長なんだ。

行く前と帰ってきたあとでは別人だ。

行った先で変わったのかもしれないし、行くまたは帰るいう行為で変わったのかもしれない。

 

ベルリとアイーダの冒険と言うが、たんに中心がそこというだけであることも大事な要素だ。

物事を知るということは非常に大きなエネルギーを必要とし、知った先にあるものが希望であるとは限らない。

時に傷つき、挫折するだろう。

そんな時に他者の存在が果たす役割の大きさも丁寧に描かれている。

前を歩くもの、横を歩くもの、後ろを歩くもの。

彼らと関わることもまた成長の手助けであり、歩き続けるために必要なものだ。

 

人にはそれぞれの物語があり、君のストーリーではモブに過ぎないやつも他のストーリーでは重要な役柄かもしれない。

ただ、人が見やすい視点には限りがあるし、時間もないし、キリもないのでこれはベルリとアイーダの冒険なんだ。

 

いろいろと言ってきたけど内容に関することはほとんど触れていないな?

まぁ、「見識を広げろ」それが富野由悠季監督の一番言いたいことなんだろうからまとめるとこうなるのかな。

忘れてはいけないのが、それらを物語として成立させるためには当然話の構成も、キャラも、それをとりまくあらゆる設定に気を配らなければならないということだ。

文明レベル、各国の方針、各国がどう変わって行くか。

キャラのこれまで、交友関係、今の立場、これから何が起こりそれに何を感じるのか。

 

 Gレコの世界、R.C.(リギルドセンチュリー)1014年で根幹となるものはなんなのか?

それはフォトンバッテリーだ。

この設定はGレコの世界でしか出てきたことがない。

何故フォトンバッテリーが根幹となるのか?

全ての動力源となっているからだ(フォトンバッテリーなしには生きられない文明)。

ここで選択肢はわかれる。

①何故フォトンバッテリーにそこまで依存した文明になったのか?

②それほど重要なフォトンバッテリーは世界を支配しうる、もうしているのではないか?

どちらも話の中核たりうる要素だ。

①を中核とするならフォトンバッテリーの謎を追う、既存文明からの脱出などといった話が作れる。

②を中核とするならフォトンバッテリーの独占の達成はそのまま世界征服であり、それを巡る戦争やそれを阻止するための戦闘といった話が作れる。

そう、設定は無限だ。

いくらでも凝ることができるし、設定を組み合わせて行くだけでできあがるストーリーもあるだろう。

だが前述したようにこれはメッセージがあって、そのための話なので設定そのものに意味はない。

設定に流されてはいけない。

メッセージを中核とし、それを設定で飾り付ける。

言ってしまえば、設定はハッタリだ。

だがハッタリがハッタリだとバレては楽しまれない。

富野由悠季監督はそういうところが上手い。

「きっとこういうものがある。こういうことがある。」がメッセージをストーリーとする補強になっているんだ。

本当、そういう手腕に惚れ惚れする。

 

話作りに関する感想はこんなところで、次に行こうか。

 

Gレコがどんなキーワードで構成されているかと言うと「冒険」「タヴー」「地球と宇宙」「自己と他者」といったところかな?

 

「冒険」についてはさっきから散々言っているのであまり詳しくは言わない。

 

「タヴー」というのは様々な用途で話に関わってくる。

まずは「アグテックのタヴー」だろう。

リギルドセンチュリー宇宙世紀の続きだ。

宇宙世紀は何故リギルドセンチュリーになったのか、単純に滅びかけたからだ。

宇宙世紀は戦乱の時代だった。戦争による加速度的軍拡競争は人間を滅亡させかけたのだ。

生き延びた人々は科学技術を制御することでこの悲劇を繰り返さないようにした。

それが「アグテックのタヴー」、フォトンバッテリーの供給と引き換えに地球の科学技術の進歩を制限したのだ。

しかし、忘れるのが人間というもの。

その根底にある思想は時間の流れとともに忘れられ、そして1人の思惑により徐々に破られていく。

 

富野由悠季監督が戦争を嫌悪していることは∀ガンダムからもわかる。

人類の戦いの歴史、自ら鍛えた牙によって滅びていく歴史を富野は「黒歴史」と命名し物語中で封印していた。

しかし黒歴史の封印はとかれ、戦いを求める者たちが暴れ始める。

人の歴史が戦争から離れられないのならば、人はその事実に立ち向かわなければならない。

そんな風に俺は感じた。

 

タヴーを構成する要素はまだあるけれど、「地球と宇宙」に移ろう。

ガンダムで富野は地球が持つ人間にとっての重要な意味について描いていた。

人類は地球の重力に縛られている、と。

宇宙というフロンティアを見つけた人類はいまだそこに永住する術を持たない。

仮の生存圏を確立させたに過ぎない。

当然だ。人間は地球の生き物だ。

宇宙には地球で当然のものが何もない。

それは、ガンダムの世界であっても変わりなく、地球に住む人々にとって地球の環境は当然であり(宇宙の環境を異質だと感じる)、宇宙に住む人々にとって地球は羨望の対象だ(スペースコロニーは地球の環境を模しているがそれに地球のものほどの強度はない。循環機械が壊れればそれまでのもの。スペースコロニーに穴が開けば何もない宇宙に放り出される。そんな危険性を常に隣に置く。)。

そうした「物語上特別な地球」と「宇宙」の関係でGレコはもう一歩踏み込んだものを出した。

ムタチオン(mutation)」だ。

読んで字のごとく突然変異だ。

宇宙環境に適応した結果?人々には長寿になる代わり身長が縮むという現象が見られるようになったのだ。

さきほど人間は地球の生き物だといったことと重なる。

まるで人間が地球以外の生き物になっていくかのような描写だ。

このムタチオンとの向き合い方(ムタチオンした人が自分を見る、ムタチオンした人を地球の人が見る)はこれまでのガンダムとは全く違う要素であると俺は思う。

 

もう少し細かいところで地球と宇宙の対比、対応などはあるのだけれど、言っているとキリがないので「自己と他者」に移ろう。

この話で最もそれが大きく出るのは「クンタラ」だろう。

クンタラ」とは前述した宇宙世紀に人類が滅びかけたことに由来する差別だ。

ざっくり言うと「人に食われるような劣った人」というなんとも重い設定だが、RC1014のGレコの話ではもうそんなことはない状態だ。

ないがその名残で差別だけが残っている。

クンタラを取り巻く状態にはおおよそ

①相手がクンタラであるかないかを気にしない(ベルリなど)

②自身がクンタラであることに劣等感を感じている(ルインなど)

クンタラである相手を差別する(キャピタルガードのモブ)

にわけられるだろう。

クンタラであることに劣等感を感じるルインは同様に相手がクンタラであるかないかを気にしていないベルリに劣等感を感じる。

劣等感を感じるが、ベルリ自体はとてもいいやつだった。それがまた、自分に劣等感を感じさせる。

それは彼がマスクとしてキャピタルアーミィパイロットとなったあとにも続いた。

クンタラの地位向上と名誉を懸けて戦うマスクに立ちふさがるGセルフ(ベルリ)。

憎しみが募っていくルイン、いやマスク。

自分と違い恵まれた環境にありながら自分の幸せを犠牲に上に進んでいく、そう思わずにはいられなくなった。

ここに対比が生まれていることに気付いているだろうか。

育ちのいいベルリにとってクンタラなんてものは前時代的観念でしかなく、意識すらしていない。

常に差別を受けてきたルインにとってクンタラは今現在自らを縛るものであり、どんな時も根底にある。

ベルリにとってルインはキャピタルガードの同期であり、友人だ。彼女のマニィ共々彼にとって敵ではない。

ルインにとってベルリはクンタラのために邪魔な存在であり、立場的にも味方ではない。立場上も心情としても倒すべき敵なのだ。

 

この2人の決着を持ってガンダム Gのレコンギスタはエピローグを迎える。

ベルリに敗北したルインはマニィと共に旅に出る。その表情は安らかだ。

俺は、彼が答えを得られたのだと信じたい。

彼にとって大事なものがなんだったのか。

クンタラとしてのプライドか?パイロットとしてのサクセスか?

そうではなかったから、そんなもの一番大切なものに比べたらなんでもなかったのだとわかったからこそのあの終わりなのだと俺は思う。

 

Gレコの魅力は正直オーディオコメンタリー形式でやるのが一番伝えやすいと思ってしまうんだけれどそれは面倒だし本編に集中してもらいたい気持ちも大きくできないので、かいつまんでほんの一部だけこうして見せた。

これを読んでいるのがこれらを忘れてしまった俺なのか、はたまたどこかの誰かなのかはわからないけれど、あの世界を見てもらえると嬉しいな。